北舘神社へ行ってきました。
祀られている神様は、戦国武将であり、最上義光(もがみよしあき)公の家臣の一人、北館大学助利長(きただてだいがくのすけとしなが)という方です。
わたしは、全く知らなかったのですが、庄内平野東部地域を超発展させた人物です。

JR羽越本線(うえつほんせん)余目駅から車で南東へ15分、最寄り駅(JR陸羽西線[りくうさいせん]狩川駅(かりかわえき)から徒歩で南へ15分の笠山(かさやま)という小高い山の上にあります。
※表は横スクロールで閲覧可能です
住所 | 山形県東田川郡庄内町狩川字笠山400 |
電話番号 | 0234-56-2322 |
御祭神 | 北館大学助利長(きただてだいがくのすけとしなが)公 |
アクセス | JR陸羽西線(りくうさいせん)狩川駅から徒歩で南へ 15分(1100m) |
例大祭 | 5月1日 |
駐車場 | 15台位 |
公式HP | 有り(投稿時アクセス不可) http://www.k5.dion.ne.jp/~kitadate/ |
神様として祀られているのは、 北楯大堰を完成までこぎ着けた庄内開発の恩人であり、水神様として崇められている北館大学助利長(きただてだいがくのすけとしなが)公(以下、北館公と略す)です。
1617年(元和3年)北館家の屋敷内に「美都波能売人神」を水神として祀る。
(「美都波能売人神」は、火を鎮める水神にして豊穣をもたらす農耕神)
1778年(安永7年)北楯大堰の恩恵を受けた人々が、北館公の功績を称え、狩川にある八幡宮の境内の一角に北館水神社として祀る。
1919年(大正8年)狩川城址の楯山公園に新しく社殿を新築し、神社を移転
1921年(大正10年)神社名が北館水神社から北舘神社に改称される。
(館から舘へ変わった経緯は不明です。)
1961年(昭和36年)別表神社に列格される。
海上自衛艦「もがみ」の守護神として分霊される。
1972年(昭和47年)現在地(笠山)に社殿が移転御造営される。
北館公とは?
・最上義光(もがみよしあき)公の家臣
・1601年(関ヶ原の合戦の後)現在の庄内町にある狩川城主として着任
・着任当時は3000石の中堅どころ
・着任当時は54歳
・当時水利に恵まれない荒地に大規模な灌漑工事(- 農地に外部から人工的に水を供給すること -)を実行し北楯大堰(きただておおぜき)を完成させる。
・最上家家臣団の中で唯一、神様として祀られている。
・地元の人々からは「大学様」と呼ばれている。
北館公と北楯大堰
北館公は、庄内の狩川城主に着任後すぐ、荒れた大地で農作に苦しむ人々を目にして、何とかしようと奔走することになります。当時の平均寿命は50歳位ですので、そのやる気と気概が半端でないことがわかります。
現在も、山形県内の多くの地域では最上川が水源になっていますが、ここ庄内の地域では最上川の川底が低く、水を引くことが難しい状況でした。
北館公は水源を探すため、日々、山川渓谷を駆け巡り東西南北を調査されたそうです。
最初、そのあまりの熱心さに農民達は「水バカの山巡り」など、嘲笑したり罵詈雑言を浴びせていたそうです。
やがて、月山の北側を流れる「立谷沢川」という豊富な水源に目を付けます。
調査と検証を重ね、水を通す堰台を作り水を引く計画を立てました。
この調査、計画には、なんと10年もの歳月をかけています。
この後、請願書を最上義光公へ届けることになるのですが、家臣の中には反対する者も多かったそうです。
最終的には最上義光公の強い後押しもあり(鶴岡で余生を送る目論見等もあって)、当代一流の棟梁による正確な測量を行うことに至ったようです。
1611年(慶長16年)6月、狩川の堰台工事は最上家の藩営事業として、北館公へ着工指示がでることとなりました。
1612年3月5日雪解けを待って工事が始まりました。
周辺各地から労働者が集められ一日に働く人の総計は7400人。
工事では落石事故で人が亡くなることや、荒れる川をなかなか堰き止められない等、アクシデントを伴いながら進められました。
第一期工事は、わずか4ヶ月で約10kmの水路の完成に至った。
北楯大堰の完成です。7400人の労働者を動員したとしても凄いことです。
労働者には酒や、菓子、銀の大判振る舞いがされた記録も残っているようです。
1615年、第二期工事が完了。水路の長さは32kmに及ぶ。
その後も本水路を基に支流の灌漑事業は続き、酒田市の落野目まで延長されたようです。(山居倉庫がある辺り)
その結果、 新たに約5,000haが開田し57年間で、 新たに46もの村落が開村されました。この広大な受益地内に計画的に用水を供給する役職を設置することにより、地域の米収穫量は約7倍〜10倍にも増量したそうです。
北楯大堰は農業を中心とした時代の、経済発展および、農村形成に大きく貢献することになります。
月山から流れる雪解け水は大変冷たく美味しいお米の条件を満たす水です。

玉砂利が敷かれた境内です。

北舘神社が移転造営された際からある、年季を感じる鳥居

きれ〜な拝殿です。

北楯大堰開削400年を記念して、 庄内町の髙橋夫妻から奉納された北舘神社の神額です。約1年の制作期間で、書道師範の奥様の書をもとに旦那さんが刻みを入れて完成されたそうです。
ピッカピカ✨ですねっ

拝殿の奥にある本殿です。
塀が高いので背伸びして撮影したものです。

「ご縁桜 神代に遡るご縁を祝う」
平成二十六年10月5日に高円宮紀子殿下の次女、紀子嬢王殿下と出雲大社の直系千家国麿氏がご結婚なさいました
天照大神を祖神とする天皇家と多くに主命が国譲りをされた出雲大社との神代からの深いご縁が二千年時を経てここに結ばれました
この慶賀を寿ぎ北舘神社では京都御所にも咲く優美な八重紅しだれ桜を植栽いたしました
そして最良の御縁にあやかり人と人との良縁が皆様にも授かりますように この桜を「ご縁桜」と名付けました
大神様の御加護のもと、枝葉が大きく繁り人々にもご縁の輪がますます広がりますと 千代に八千代に天下泰平となりましょう
平成二十六年植栽 北舘神社
〜 境内の立札より 〜
「宿衛舎」
1972年に北舘神社が現在地へ移転造営された翌年、伊勢神宮の「式年返遷」に伴い拝領された「宿衛舎」(:お守り等の授与所)です。
1973年は、伊勢神宮の「式年変遷」第60回の年でした。
北舘神社の移転造営を記念して贈られたものです。
「式年変遷」とは、(定期的に行われる遷宮)である。神宮では、原則として20年ごとに、内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の二つの正宮の正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す。このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、714種1576点の御装束神宝(装束や須賀利御太刀等の神宝)[1]、宇治橋[注釈 1][注釈 2]なども造り替えられる。
出典:Wikipedia
20年毎に数年をかけて(お金もかけて)建て替える理由としては、
・建替えの技術の伝承を行うため
・神道の精神として、常に新たに清浄であることを求めたため。
・神嘗祭に供される穀物の保存年限が20年であるため
・当時の公共工事による経済の活性化
などなど...様々あるようです。
こちらの狛犬も、北舘神社の信奉者から奉納されたものです。
胸を張った大きな狛犬です。上空を見上げている為、近くでは良くお顔が見えない...

北楯大堰の完成に大きく貢献した北館公には、縁深い地や史跡がたくさんあります。この日は、笠山の周り1/3ほどをぐるっと見て回りました。

こちらは、北舘神社がある笠山や楯山公園の麓です。
現在の楯山公園(狩川城址)には、移転造営前の北舘神社がありました。
その時代の参道だと思われます。
参道を登って行くと楯山ビュースポットがあります。木々が生い茂っていてそこまで眺めは良くない。
ちょうど紫陽花は見頃で、鮮やかに咲いていました。

楯山ビュースポットから、さらに登って行くと楯山公園となっており、広いグランドゴルフ場があります。当時の狩川城があった場所です。

グランドゴルフ場の片隅には、北館公の銅像が建っていて、ここに移転造営前の北舘神社がありました。移転造営された現在の北舘神社までは徒歩で3分位歩くと着きます。

楯山公園には約500本のソメイヨシノが植えられており桜の名所にもなっています。また、二本だけ「十月桜」という品種も植えられており、春と秋に花見を楽しむことができるそうです。
世界かんがい施設遺産は、建設から100年以上が経過したかんがい施設で、農業のみならず地域の発展への貢献度が高く、適切に維持管理されている施設を国際かんがい排水委員会(ICID)が認定・登録する制度です。
山形県のホームページより
現在、アジア・オセアニア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの77カ国・地域が加盟しており、平成29年度まで60施設(10 ヵ国)、うち日本国内では31施設が登録されています。
2018年(平成30年)8月14日に「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
お初穂料は300円でした。
事前に連絡してから伺ったのですが、連絡時は酒田へ外出中とのことでした。
ご都合の良い時間を確認してから伺いました。
御朱印を頂きたい方はアポイント大事!
社務所でお話を伺うことができました。
御朱印を書いてくれたのは北舘神社の16代当主の妹さんで、書いて頂いている間、社務所へ上がって下さいと、ご案内して頂きました。社務所の中には北館公や北楯大堰に関する資料がたくさん掲示されていて大変に興味深いものでした。
また妹さんからは、直接北館公や北楯大堰についてのお話を伺うことができました。
北館公への尊敬の念と、感慨事業を後押しされた最上義光公への感謝の言葉が印象深かったです。わたしはこちらの神社の氏子でもないし、なかなか今まで無かった経験の為、嬉しかったです。お忙しい中ありがとうございました<(_ _)>
こちらの神社へ伺って「キタダテ」が3つでてきす。
記事を書く際に気を付けて書いたつもりですが、間違えていたらスミマセン!
「北館」
北館公の苗字です。
「北舘」
1921年(大正10年)神社名が北館水神社から北舘神社に改称されました。
(館から舘へ変わった経緯は不明です。)
「北楯」
北楯大堰に使われている。
北楯大堰の第二期工事中に、最上義光公がお亡くなりました。最上義光公は最上家を急速に拡大させることを成しましたが、急速に拡大した為、家臣団のまとめや後継問題を掌握するには至りませんでした。最上家は跡継ぎ騒動を起こしてしまったことで、改易されて(罰を受けて)家臣団もろとも散り散りとなります。【元和の最上騒動】
しかし、北館公に関してはお咎め無し!とされ、庄内に新しく入った酒井氏(徳川四天王 酒井忠次の孫)に北館公の息子が仕えることとなりました。
その際、あくまで北館公の忠義は最上家にある。ということで、息子の代より苗字を「北楯」と変えたそうです。
まとめ
・北舘神社の神様は北館大学助利長(きただてだいがくのすけとしなが)
・北舘神社に祀られているのは最上家家臣団内で唯一の存在
・北館公は感慨事業を通して庄内開発に大きく貢献した人物
・例大祭は5月1日で、令和が施行された日と同じ
・2018年、北楯大堰は「世界かんがい施設遺産」に登録された
・楯山公園は桜の名所、秋に咲く品種もあり、秋の花見もできる。
以上、『北舘神社|水神様として祀られる・庄内平野開発の父 最上家にキタダテあり! – 庄内町 -』でした。