天童市の舞鶴山公園にある、織田信長を神様として祀った神社です。
織田信長といえは日本で最も人気がある偉人の一人です。
でも、織田信長ってたしか、愛知県出身とか、岐阜県にいたとか、
かの有名な安土城があったのは現在の滋賀県です。
天童市と織田信長って何の関係があるの??

JR天童駅から、車で南東へ5分、徒歩でも15分で行ける場所にあります。

建勲神社(たけ いさお じんじゃ)は舞鶴山という公園の一角にあります。
住所:天童市天童1043−5 建勲神社
電話番号:023-653-0289
アクセス:JR天童駅から徒歩で15分
駐車場:有り
公式HP:建勲神社(山形県HP山形漫歩より)
舞鶴山公園は毎年4月に開催される人間将棋の会場でもあります。
(天童市は将棋の駒生産量が日本一で、将棋とゆかりがある地域です。)
建勲神社は織田信長を神様として祀っている神社です。

冒頭でも書きましたが、あの超有名人、織田信長がどうして天童市で神様として祀られているの??
それは、織田信長直系の末裔が天童にいたからです。
天童市は江戸時代後期、天童織田藩が統治していました。
織田信長の次男である、織田信雄(おだのぶかつ)の子孫の方々です。
織田信雄は三谷幸喜監督の清須会議という映画にも登場します。
妻夫木聡さんが大変ひょうきんな役を演じています。
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織田信長と天童の関係
織田信長が本能寺の変で亡くなった後、実権は羽柴家臣の秀吉が握ることとなります。次男の織田信雄は羽柴秀吉と徳川家康との間を行ったり来たりして織田家を守ります。
江戸時代になり織田家(信雄の子孫)は小幡藩(群馬県甘楽町)や高畠藩(山形県高畠町)を治め、天保二年(1831年)に、藩主の信美が天童に入り、天童織田藩となりました。
建勲神社の創建
明治維新の際、天童織田藩は官軍に味方した功績で織田信敏に子爵の称号を賜りました。また、藩祖である織田信長に「健織田社」(たけしおりたのやしろ)という神号が下賜され、明治3年には建勲神社として日本で最初に舞鶴山に祭られることになりました。

やっぱり天童市と織田信長との関係薄いような…

織田信長は当時、西洋諸国から日本への侵攻を未然に防いだことや、外国文化を取り入れ日本の発展に大きく貢献した人です。
織田家は天童の地と深く関わっており、建勲神社は成るべくして天童の地に創建されたのです。
天童市以外の建勲神社
天童市以外にも織田信長を神様として祀った建勲神社があります。
明治8年(1875)に別格官幣社に列せられ京都の船岡山に社地を賜りました。
正式には「たけいさおじんじゃ」ですが、一般には「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」として親しまれているそうです。
京都は、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地でもあります。
ネットで「建勲神社」を検索すると、まず京都の建勲神社がヒットします。
・兵庫の建勲神社
創建は元禄8年(1695)、織田信雄の子孫である柏原藩初代藩主織田信休が柏原陣屋内に勧請したのが始まりとされます。こちらも明治2年(1869)に建織田社となり明治3年(1870)に建勲神社に改称、明治13年(1880)に現在の地に遷座しました。
こじんまりとした境内です。
車で境内直接近くまで来ることができますが、乗り入れは禁止のようです。

建勲神社の拝殿です。
扉の奥には織田信長公の肖像画が飾られています。
扉が閉めきられていた為、この日は直接見ることができませんでしたが、
ホームページをみると鎧兜等も飾られているようです。

拝殿に飾られている社名の書かれた板です。
最後の天童藩主、織田信敏の養嗣子となった方の直筆のようです。
織田信長が宣言した「天下布武」です。
けっして、暴力で支配するという意味ではありません。

参拝の後、こちらの社務所で御朱印を頂きました。
シンプルな御朱印です。

御朱印を頂いた際に一緒に頂いた金平糖です。
西洋の宣教師が信長に献上した品のひとつで、時代劇などでもよく登場します。
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以上、『建勲神社|天童市舞鶴山に在る織田信長公を祀る神社』でした。