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谷地八幡宮|シルクロードの面影を残す 一子相伝の林家舞楽を伝える神社 – 河北町 –

谷地八幡宮の御朱印

谷地八幡宮(やちはちまんぐう)へ行ってきました。
河北町役場の斜めに隣接しています。

近々、例祭の時季(9月中頃)に開催される「谷地どんがまつり」の取材が来ていました。 「谷地どんがまつり」 で披露される「林家舞楽」 は1200年の伝統を持つ日本四大舞楽の一つで、日本 < アジアの面影が強く残る舞です。

谷地八幡宮へのアクセス

JR奥羽本線さくらんぼ東根駅から車で西へ15分の場所にあります。
河北町役場の斜めに隣接しています。

※表は横スクロールで閲覧可能です

住所山形県西村山郡河北町谷地224
電話番号0237-72-2149
主祭神誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇、八幡神)
配祀神市寸島比賣命( いつきしまひめのみこと=狭依毘売命)
アクセスJR奥羽本線さくらんぼ東根駅から車で西へ15分(7400m)
例祭9月(敬老の日を含む3連休)
駐車場10台位
公式HP谷地八幡宮

谷地八幡宮のご由緒

源八幡太郎義家創建と伝えられる大社。
(源八幡太郎義家は、源頼朝や足利尊氏などの祖先)

1091年(寛治5年)、後三年の役(東北地方で起こった戦争)で、朝廷側の源義家が戦勝の神恩に感謝して石清水八幡宮(京都)から白鳥村(現在の村山市白鳥近辺)に八幡神を勧請(神仏の分霊を請じ迎え)して祀られた。

1593年頃(天正元年)、白鳥十郎長久公が谷地城築城した折、白鳥村から現在地に移さた

1873年(明治6年)、郷社に指定

1913年(明治40年)、神饌幣帛料供進神社に指定

1940年(昭和15年)、県社に昇格

1959年(昭和34年)、別表神社に指定され、創建当時の「谷地八幡宮」と改称

白鳥十郎長久公ってだれ?

白鳥十郎長久公は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、村山地方の最上川左岸側を支配した一族の武将

出羽国白鳥城および、谷地城主(現在の村山市最上川左岸を拠点とした国人領主)

近隣の寒河江家、溝延家と縁戚関係にあって同盟関係にありました。当時イケイケドンドンな織田信長と関係を築こうとしたことから最上義光に警戒され、1584年に謀殺(ぼうさつ)されてしまいます。

谷地八幡宮の境内

谷地八幡宮の手水舎

手水舎は水道水を利用してあって、通常は都度蛇口をひねらないと水がでません。

谷地八幡宮の狛犬は細部まで造形が作りこまれたイケ狛犬です
(⋈◍>◡<◍)

谷地八幡宮の拝殿

お供え物のでかかぼちゃ?

谷地八幡宮の神饌所

拝殿の左側には神饌所(神様の食事をつくる場所)があります。

本殿は色彩は少ないですが、かなり立派な造りです。

谷地八幡宮の末社など

谷地八幡宮内の八坂神社

末社の八坂神社

谷地八幡宮の末社

本殿近くにある末社、手前から、
・稲荷神社
・金山神社
・雷神社
・竈戸神社
・天満宮

境内にある石碑

境内にある時報塔(時報堂)

谷地八幡宮の「林家舞楽」

谷地八幡宮の「林家舞楽」

860年(貞観2年)慈覚大師が羽州山寺立石寺を開山した際に、「大阪市四天王寺の楽人」林越前守政照が慈覚大師に従って東国に下り、四天王寺の舞楽を山寺に伝えたと古記録に記される。
この後、林政照の子孫は山寺で例年舞楽を奉仕したが、室町時代に慈恩寺(寒河江市)に、さらに江戸時代初期に谷地に移り住み、山寺・慈恩寺・谷地八幡宮の舞楽を司り現在に至る。

林家舞楽」は河北町の谷地八幡宮 宮司林家に伝わる舞楽で、1,200年の伝統を持ち、宮中舞楽・四天王寺舞楽・南都楽所舞楽と並ぶ「日本四大舞楽の一つ」とされ、重要無形民俗文化財に指定されている。

林家舞楽は早くに地方に下ったため、平安中期以降の楽制改革(日本化)の影響が少なく、よりシルクロードの面影をとどめていると評される。

河北町 :河北町谷地八幡宮の秋の例祭(9月14日・15日)

寒河江市:慈恩寺の春の法会(5月5日)

山形市 :山寺立石寺臨時法要(数年に一度)

谷地八幡宮の御朱印

谷地八幡宮の御朱印

お初穂料は300円でした。

   

以上、『谷地八幡宮|シルクロードの面影を残す 一子相伝の林家舞楽を伝える神社 – 河北町 -』でした。

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